歴史の話。
今年は出張が多く、数えてみたらこれまで7回出張があった。行き先は北海道、九州そしてベトナムであるが、九州にすでに2回行っているところが例年と違うところだ。
さて、21日から23日まで、北九州と福岡に行ってきた。北九州で本格的な仕事をするのは今回が初めてだったので、先方の会社にわがままを言って北九州空港まで迎えに来ていただき、門司、下関を案内していただいた。
門司から関門橋を渡り下関に到着したころ、ちょうどお昼になっていた。先方のご好意で、昼食を春帆楼(しゅんぱんろう、写真上)でいただけることになった。春帆楼の名前は聞いたことがあったが、実際に訪れるのはもちろん初めてのことだった。
天皇陛下も宿泊されたことのある春帆楼の命名者は初代総理大臣のの伊藤博文で、日清講話条約(下関条約)が締結された場所として知られている。また、ふぐ(下関あたりでは「ふく」と呼ばれている。)料理が美味しいことでも知られ、ふぐの免許を日本で初めて取得したのもこの春帆楼なのだそうだ。
昼食といいながら、ふぐのフルコースが出てきた。一杯どうですかとすすめられたので、せっかくなのでビールをいただいたのだが、しばらくして仲居さんがひれ酒もありますよというので、調子に乗って絶品ひれ酒を3杯も飲んでしまった。ちょっとだけ負い目もあったが、これもコミュニケーションの一環と自分に言い聞かせ、昼酒を満喫させてもらった。
帰り際、春帆楼特製の鯛わたの塩辛を購入し、晴天のもといい気分で隣にある赤間神宮を参拝した(写真中)。ご存知のように、この神宮には壇ノ浦の戦いに敗れ、幼くして亡くなった安徳天皇が祀られている。また、「耳なし芳一」の舞台になったことでも知られる。
さて、関門海峡には宮本武蔵と佐々木小次郎で有名な巌流島がある。昨年2012年は、いわゆる「巌流島の決闘」からちょうど400年目にあたるのだそうだ。巌流島というのはさぞかし大きな島なのだろうと思っていたが、実際はとても小さな島だった。
それからフェリーで門司港に渡り、旧門司税関(写真下)、門司港駅などを案内していただいた。港町にもかかわらず町並みがとても綺麗に整備されていて、平日にもかかわらずたくさんの観光客で賑わっていた。
下関、門司を案内してもらい、本州や九州には北海道にはない日本の輝かしい歴史があり、その歴史がつくった重みがあると感じた。特に山口県からは、伊藤博文から現在の安倍晋三まで合計8人の総理大臣が輩出されていて、長い歴史のなかでもまれながら身につけた「したたかさ」が日本のリーダーを数多く生み出してきたのではないかと思った。
歴史の浅い北海道で生まれ育った僕は、そんな物語のある地に多少の嫉妬心を覚えながら次の目的地である福岡博多に移動した。
この世の話。
グアムで日本人が3人殺害されたが、本当に気の毒だと思う。僕はグアムに行ったことがないので知らなかったが、グアムに来る外国人観光客のほとんどが日本人なのだそうだ。飛行機に乗って3時間程度で行ける気軽さと、治安の良さがグアムの魅力らしい。
世の中には本当に辛いことが多い。その最たるものが東日本大震災かもしれないが、今この瞬間、直下型大地震が関東で発生して、僕が一瞬にして命を落とすことだってあり得るのだ。人間がいつ死ぬかなんて誰にもわからないのだ。
私事で恐縮だが、僕の父は僕が30歳のときに急死した。高血圧を患ってはいたが、入院はせず普通に生活していた。父が急死したことは、会社の総務部の方から聞いた。翌日、僕は東京を発ち、釧路の自宅に到着するまでの間いろいろなことを想像し、考えたが、不思議と涙は出てこなかった。
自宅で父の遺体と対面したとき、目頭が一瞬熱くなったことはあったが、号泣することはなかった。それよりも「人間はいつか死ぬ」という当たり前のことを僕は何度も何度も胸のなかで確認していたように思う。
僕はどちらかというと涙もろいほうだと思う。テレビや映画の人情モノを観てボロボロ泣くことも多い。でも、人の死については不思議と冷静な気がする。この世は辛いことばかりだと説く宗教があるが、まったくそのとおりだと思う。
生老病死という言葉があるが、この言葉どおりに死ぬことができる人間はまだ幸せなほうで、この世に生を受けてまもなく死んだり、また、老いる前に若くして人間は死んだりするのであるから、この世は本当に辛いことばかりなのである。
人間はいつか死ぬのだから、その前に「死に方」を考えようと言う人がいるが、こういうのは僕はよくわからない。いまのところ深刻な病気がなく生活しているからかもしれないが、僕は基本的に面倒くさがりやで、なるようになるさタイプなので、どう死ぬかなんて考えたくないし、考えても仕方ないような気がする。
今日はなんか変な話になったが、ご容赦願いたい。写真は、倉科カナさん。日曜日のドラマ「dinner」でイタリア料理店の支配人を演じている。彼女のこと知らなかったけど、ドラマを観てファンになりました。
よりどころの話。
今日から31日まで仕事でベトラム・ハノイに行く。昨年8月以来の海外であるが、この年になると飛行時間6時間というのはかなりきつい。若い頃なら飛行機に乗って綺麗なキャビン・アテンダントにチラチラ目をやることが楽しみだったが、そんな元気もだんだんなくなってきた。
こんなヤワな人間がいる一方で、アルジェリア人質事件で犠牲になられた方々のように、仕事に対する使命感を持って海外の危険地帯で日夜働く企業戦士たちもいる。それにしても、亡くなられた10名の方々は気の毒というしかない。政府や企業は日本人の安全確保に一層力を入れなければならないのは当然であるが、宗教問題など越すに越せない高いハードルも厳然としてあるような気もする。
アルジェリアはイスラム教の国であるが、今回の事件の犯人グループはイスラム原理主義者だと言われている。イスラム教とイスラム原理主義の違いがよくわからないので、Wikipediaを調べてみたが、やっぱりよくわからない。ただ、イスラム原理主義=過激派という一般にあるイメージはどうやら間違っていることだけはわかった。
宗教のことは全くくわしくないが、大きく見ると、世界中のもめごとの根底には宗教のことがあるのかもしれない。僕のように宗教にはぜんぜん関心のない人間にとって、宗教のことで対立するということがなかなか実感できない。
世の中には、キリスト教、イスラム教、仏教といった大きな宗教から新興宗教まで多種多様の宗教が存在するのかもしれないが、それらに共通していることは、宗教を信じるものにとって宗教は「よりどころ」だということだと思う。その「よりどころ」をさらに強固なものにするために、宗教に物語性をもたらせることもある。
例えば、キリスト教では、イエスは絶対唯一の神とされている。その他、聖書には物語というか神話のような話がたくさん書かれていて、キリスト教を信じる方々にとってそれらのことは当然の前提としてとらえられている。そのことに対して他の宗教の信者が「それは違います」と抗議をしても、キリスト教信者は一歩も譲ろうとはしないであろう。
「よりどころ」を持つということは、生きていくうえで大切なことかもしれないし、その点で宗教の持つ意義というのは計り知れないものがあるのだろう。しかしながら、「よりどころ」にあまりに入れ込んでしまい、一歩も引かないような感じになってしまうと、世の中でいろいろな争いが起こってしまうような気がする。
僕のように宗教を信じずに通俗的に生きることがいいとは言わないが、今回のアルジェリア人質事件は宗教というものの難しさ、複雑さを示したことは確かなような気がする。
写真は、ベトナム航空の制服。いいね。
わかりやすい話。
先日、芥川賞と直木賞の発表が行われた。話題になったのは、75歳というこれまでの最高齢で芥川賞を受賞した黒田夏子さんだった。テレビで観た限りであるが、落ち着いていて品のある女性のように感じた感じた。
さて、黒田さんは年齢だけではなく、それ以外にも「型破り」なところがあった。一つは、作品が通常の縦書きではなく、横書きで書かれていることだ。そしてもう一つは、文章がほとんどひらがなで書かれていて、固有名詞やカタカナが使用されていないことだ。
作品の一部をテレビが紹介していたが、なるほど9割以上がひらがなで書かれている。受賞会見のとき、何故ひらがなで書くのかという記者の質問に対して黒田さんは、漢字だとなにか非常に限定されるところがあって、ひらがなのほうが連想の広がりが豊かだからと答えていた。
しかしながら、正直なところ、ひらがらがあまりに多すぎると、読みづらいのではないかという疑問もある。漢字やカタカナが適度に使用される文章のほうが読みやすいような気がするが、ただ、一般的には、漢字をやたら多用したり、難解な漢字がちりばめられた文章よりは、ひらがなが多い文章のほうが読みやすいことは事実だと思う。
ビジネスの世界では、ひらがなとか漢字という問題よりも、わかりやすく簡潔かどうかが問題になる。僕はよく部下に、書類の報告でも口頭の報告でも、簡潔明瞭、サルにでもわかるように説明にしてくれと指示する。説明が長いのは本人がよく理解していない場合が多い。簡潔明瞭に説明できるというのは、本人がきちんと理解しているときにできる芸当なのだ。
さて、僕は評論とかエッセイが好きだが、本屋で実際に本をペラペラとめくってみて、読みづらそうな本だと思ったら買わないようにしている。そもそも僕の読解能力が低いということもあるが、格好つけてそういう難解な本を買っても読み通すことができないことを知っているからだ。
専門家が専門家に対して書く論文や本は別にして、一般人をターゲットにして何かを書くときは、わかりやすく書いてほしいと僕はいつも思っている。思想とか哲学などに関するものは特にそうだ。難解な文章を書ける人は「偉い人」というのは間違っているし、読む方も、理解していないのに理解したような顔をするのはよしたほうがいいと思う。わからないものはわからないと正直に言うべきなのだ。
いずれにしろ明日、新宿の紀伊国屋に行って、黒田さんの本を買って読んでみようと思う。
写真は、昨夜の銀座。左にライオンビアホールが見える。昨日、取引先が接待してくれて、ひさしぶりに美味しいすき焼を食べた。たまに、牛肉をガッツリ食べるのも悪くない。当然、その後は一人で新宿に突撃し、そして撃沈した。
親分の話。
先日、タクシーに乗ったときの話。深夜、新宿あたりでお客さんを乗せると、生意気な言葉遣いをしたり、暴言を吐いたりする若者が少なくないという話を運転手さんがしてくれた。なかには、あきらかにチンピラと思われる若者もいるという。もちろん、怖くて喧嘩はできないが、正直頭にくると言っていた。
たまに、どう見てもヤクザの親分といった感じの人が乗ってくる。でも、ヤクザの世界でもトップに立つ人は、丁寧な言葉遣いで紳士的に対応してくれる。あるとき、後部座席に乗っていた親分の携帯電話が鳴った。それまで静かだった親分が急に激怒して大きな声を出した。どうやら、部下が面倒を起こしたようだった。
その面倒を収めるため、親分は当初の行き先を変更せざるを得なくなった。「運転手さん、近くなっちゃってごめんね。」、親分はそう言って行き先の変更を運転手に詫びたという。
北野武監督の「アウトレイジ」シリーズを観ると、ヤクザ世界のことを垣間みることができる。殺し合い、殴り合い、組間の抗争が延々と繰り返されるが、そんななかで組長の仕事、役割ははっきりしていて、それは、組全体を束ねることと、組を存続させ、組員が生きて行くために自分たちの縄張り(シマ)を守っていくこと、この二つだ。
組員のなかでも考え方、意見はいろいろあって、武闘派といった好戦的な組員もいれば、穏健派といった争いをあまり好まない組員もいる。たとえ組員にいろいろな考え方、意見があっても、最後に決断し、実行することが組長に求められるわけで、それができない組長は組長失格になるのである。
政治の世界でもビジネスの世界でも、同じようなことが言えるに違いない。政治の世界で言えば、安倍総理が組長である。経済政策、外交政策、原発問題等々、ありとあらゆることに対して、百万の意見が国民から出てくる。しかしながら安倍総理は、統治能力を発揮して国民全体をまとめ、ものごとを一つ一つ前に進めていかなければならない。
国民がもっとも嫌うことは、停滞である。決まらない、進まない、そういった状況に国民はフラストレーションを感じる。例えが適切ではないが、男女がデートをしたときに、レストランで何食べると女性が男性に聞いても、ぐずぐずして男性がすぐ決めない、そのときに女性が感じるイライラ感、政治の停滞に対する国民のストレス感はこれに似ているような気がする。
まあ、いろいろな人がいろいろなことを言うけれど、安倍総理は安定した国民生活を実現するために、国全体をまとめるようがんばってほしいと思う。
さて、今日は成人式だけど、あいにくの天気になってしまった。東京も雪が降ってきた。でも北海道で生まれ育った僕は、冬に雪がないとなんとなく物足りなく思う。写真は、風景壁紙.comから拝借した北海道の冬の風景。本当に寒そうだね。
]]>干支などの話。
出張で札幌にやってきた。今年の初出張である。東京もそうだけど、北海道も今年の冬は例年以上に寒く、そして雪も多い。今朝の札幌の最低気温はマイナス12度。北海道出身の僕でも寒いと感じるし、地元のひとたちでさえ寒い、寒いと背中を丸めていた。
さて、東京へ戻る飛行機のなかで全日空の機内誌「翼の王国」を読んだ。毎年1月号の冒頭は「招福十二支占い」である。僕の子年は一番最初に登場する。それによると、今年は人間関係が広がる年で、新しい出会いが仕事にも影響を与えるらしく、そのために、交際費をケチってはいけない、無駄遣いしろとまでは書いていないが、支出を惜しむなと書いてあった。
僕はそもそも浪費家だから、どんな状況でもある程度お金は使ってきた。占いによると、今年は新しい人間関係構築のために今まで以上にお金を使えという「ご請託」であるから、ここは素直に従うことにしよう。
さて、十二支というくらいだから、十二種類の干支がある訳で、日本の人口が約1億2千万人であるから、単純平均すれば一つの干支に約1千万人の人がいることになる。そうすると、上に書いた子年の占いは、約1千万人に共通のものだと理屈上なる。1千万人が同じ運命を今年たどる、そんなことは普通考えられないわけだが、かといって、占いというものを全否定することもないような気がする。
占いは、科学ではないと思うけど、過去の膨大な経験とか、古来からの言い伝えなどを上手に整理、体系化したものだと思う。それはそれで一つの法則性に似たものがそこに存在するわけだから、傾聴に値すると考えてよい。デタラメはいけないが、一貫したものがあるというところに、占いの拠り所があるように思う。
似たようなものに、占いではなく予想というのがある。例えば、競馬の予想だ。競馬中継を観ていると、競馬のプロである競馬新聞の記者の予想がことごとく外れるからとても愉快である。でも、予想が外れたからといってテレピ局に全国から苦情が殺到したという話は聞いたことがない。
競馬ファンが記者に求めていることは予想が当たるという結果以上に、何故そう予想したのか、その理屈、プロセスなのだと思う。予想の理屈、プロセスに説得力があれば、たとえ予想が当たらなかったとしても、ファンはそう怒らないものである。とはいっても、10回予想して2回くらいは当ててもらいたいものである。10回予想して的中ゼロだと、さすがに信頼できないということになる。
まあ、いずれにしろ、前回も書いたように、今年はなんとなくパーッといくということがキーワードになるような予感がする(予感だから、根拠はあまりないよ。)
写真は、旧道庁赤レンガ。今回めずらしく忙しくて写真を撮る暇がなかった。この写真は12月に撮ったものです。
無駄の話。
先日築地市場で行われた初セリで、青森大間産のマグロが1億5千万円超で落札された。競り落としたのは昨年と同様、回転寿司チェーン店の社長だった。一説によると、この社長は現金を3億円準備していたという。この取引をめぐっては賛否両論あるようだが、少なくとも、このせいでマグロの価格が今後高騰するということはないような気がする。
さて、今の若者は(このフレーズが出始めるとオジサンになった証拠。)なかなか堅実だという話を前回書いたが、バブルを経験した僕からすると、お金をたくさん使う経験を彼らもできる世の中が早く来てくれれば良いと思う。
今日はさすがに少し下げだが、日経平均は安倍政権誕生前夜からうなぎ登りだ。今朝のテレビによると、デパートの年明け営業も絶好調だという。政権交代してまだ一ヶ月もたたないのに、消費者の懐具合が急によくなったわけではない。大切なのは世の中全体のムードだ。
バブルでいい思いをしなかったという人もいるかもしれないけど、僕は幸運にもいろいろ楽しい思いをさせてもらった。僕が何よりもいいなあと思ったのは、世の中全体の明るさ、独特の「うわつき感」だった。それと、無駄遣いがかなりの部分容認されていた。贅沢は素敵なことという言葉さえあった。
ご存知のように、その後日本経済は痛い目にあうわけだが、しかしながら、文化もふくめて世の中のいろいろなことって、きっと、無駄遣いの経験のなかから生まれ発達していく側面があるような気がする。僕のように四角四面で真面目な人間からは、文化の香り漂う業績というのは一切生まれないと言える。
無駄遣いというけれど、金は天下のまわりものだから、無駄遣いをした人もいれば、その一方で儲かった人もいるわけだ。その儲かった人は、儲かった、儲かったと浮かれてしまい、今度は自分が無駄遣いをする番になる。バブルのときって、その繰り返しだったような気がする。結果、みんなが少しずつ豊かになる、でも、度を超してしまったので、神様からきついお灸をすえられたわけだ。
まあ、このように考えれば、無駄遣いとうのは世の中全体から鳥瞰すると、無駄遣いのようで無駄遣いでないと言える。だから、お金があったら貯めてばっかりいないで、どんどん使いましょうというのが、今日の結論だ。といっても、現実的には、将来への備えを少しだけは準備しておく必要があることも事実だ。
今朝のテレビによると、大間の漁師さんには1億5千万円の約8割が入るらしい。この漁師さん、今年一年は寝て暮らせるね。でも、貯金はあまりしないで、どんどん遊んでもらうと、幸せのおすそ分けが多くの人にいきわたると思う。
写真は、北海道の函館山。百万ドルの夜景とよく言われるが、今の為替相場からすると約87百万円。大間のマグロの約半分だから、そう高くはないかもね(夜景壁紙.comさんから拝借しました。)。
古い男の話。
新年スタートの昨日、予想はしていたが、やっぱり飲んでしまった。カレンダーの都合で仕事始めが金曜日ということもあり、新年初日からパーッといってしまった。酒飲みというのは本当にいやしくて困る(自分のことだが。)
さて、今日は土曜日。年のせいか、前日どんなに飲んでも、朝の7時くらには一旦目が覚める。若い頃はそれから二度寝したものだが、人生も残りわずかになってくると、時間がもったなくて、そのままずっと起きている。
夕方、体調も回復し、久しぶりに高円寺ガード下の焼き鳥屋で一杯やった。もちろん、連れはいなくて、カウンターで一人夕刊フジを見ながら好きなせせりなどを頬張った。お店は満席状態で、かろうじて一席空いていたカウンターに座ることができた。まずは生ビールを注文。一気に飲み干して勢いをつけ、少し気分がよくなってふと横を向くと、20代後半と見える若いカップルが海外旅行の話で盛り上がっていた。
聞き耳を立てるというのは行儀がいいことではないが、男性の声が大きくてどうしても聞こえてしまう。夕刊フジの記事を読みながら、悪いなと思いながら横のカップルの話を全部聞いてしまった。
カップルは大学の同級生で、学生時代に仲間と海外旅行をよくしたらしい。行った国はキューバとかトルコとか、正直あまりメジャーではない国の名前が挙がっていた。今の若者はなかなか行動的だなあと思いながら聞いていたが、二人の会話はもっぱら細身の男性がリードしていた。この男性、明らかに関西出身とわかる言葉遣いで、自分のほうが旅慣れていることを何度も彼女に自慢していた。
一時間くらいたって、二人は会計をした。店員さんが伝票を持ってきて「5200円になります。」と言うと、僕はてっきり男性が全部支払うものと思っていたが「僕、3000円払うから、あとよろしくね。」とその男性が女性に言ったのである。ありえない、僕はそう思ったがその女性は殊勝にも「今日、どうもありがとうね。」と答えたのである。
時代なのかもしれないけど、飲み代というのは男性が支払うものだと僕は思っていた。借金してでも、男性が支払うものだと思っていた。でも、この頃はどうやら違うらしい。会社に入った頃、新橋なんかで先輩と一緒に飲むと、全部先輩が支払いをしてくれた。そういうものだと躾けられたから、自分に部下ができたとき、支払いは全部自分がすることにした。男女の飲み会なら男が支払う、先輩後輩の飲み会なら先輩が支払う、そうものだとずっと僕は思ってきた。
作家の開高健さんはエッセイで、男というものは女性に尽くすもの、女性を飾るために男は泥まみれになるもの、そう言っていたが、今の時代はそうではないらしい。時代が違うのかもしれないが、ちょっと寂しい感じもする。僕はしょせん古い男なのかもしれない。
写真は、毎度恐縮ですが定点観測地点、新宿です。
大きな声の話。
僕は高校卒業以来34年間、ずっと一人暮らしをしている。その間、幸か不幸か、女性と同棲生活をしたこともない。考えてみるとこの事実はとても恐ろしいことのようだし、なんとなく情けない感じもする。
一日の生活を考えてみると、平日の場合、半分は会社など家の外で生活し、もう半分は家にいる。土曜、日曜、祝日は休みだから、旅行などしない限り半分以上は家にいる。そうすると、34年間のうち多分20年間近くはずっと家にいる計算になる。当然、家にいるときは人と喋らないわけだから(電話もほとんどしない。)、このことも考えてみるととても不思議な感じがする。
旅行するのも必ず一人だし、僕は結構一人が好きかもしれない。でも、決して人見知りではないし、一旦話し出すと止まらないほうだ。ただ、性格かもしれないが、人と向き合うとき僕は大きな声を出したり、怒鳴ったりしない。だから会社でも、部下を叱り付けたことはない。もちろん、人間だから頭にきたり怒りを覚えることはあるけれど、そんなときでも大きな声をあげることはない。
昔から僕は、大きな声を出す人や早口で喋る人が苦手だ。うるさいから、落ち着かないからというのが主な理由だが、大きな声を出す人や早口で喋る人はなんとなく嘘っぽかったり、人をだましているような感じがするという理由もある。
大きな声といえば、昨日から駅伝放送が長時間行われていている。今日は箱根駅伝の往路だった。暇なので僕も観たが、沿道で選手に大きなエールを送るファンの声援は心地いいが、絶叫するアナウンサーの実況は耳障りでしかない。アナウンサーは使命感を持ってレースの臨場感を伝えようとして張り切っているのかもしれないが、テレビを観ているほうからすると、ただただ「うるさい」としか感じない。
ちょっと話は変わるけど、大学時代、英語の詩を朗読する授業があった。先生だったイギリス人は、詩を朗読するとき、ある部分を大きな声で強調したり、ある部分を早く読んだり、そういった感情的な朗読はしてはいけないと指導していた。その先生いわく、大切なのはイントネーション(抑揚)ということで、感情移入せずにイントネーションだけで詩を朗読するという作業は学生にとってとても難しいことだったのを覚えている。
駅伝放送も、レースの状況を冷静に淡々と伝えてくれればそれで十分だ。現場で一生懸命実況中継しているアナウンサーの方々には申し訳ないけど、観ているほうはそう思っている。
さて、今日は新年二日目。僕は新宿花園神社(一枚目の写真)と門前仲町の富岡八幡宮に行ってきた。今年は去年に比べて人出が圧倒的に多かった。ようやく通常モードに戻ってきた感じで、そうでなくてはいけないと思う。僕の感じだけど、新宿よりも門仲のほうが活気があったね。二枚目の写真は、富岡八幡宮入口にあるちゃんこともつ鍋の美味しいお店。イケメン2名と美女1名がお待ちしていますので、是非行ってください。三枚目の写真は、富岡八幡宮のすぐ近くでやっている居酒屋さん。雰囲気が抜群なので、是非ここで一杯やってください。美女がたくさんいますよ。
舌の話。
新年、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
僕は昨夜、新宿ゴールデン街で新年を迎えた。僕と境遇が同じような男性諸氏でバーはどこも一杯。ママさんが特別に作ってくれた鍋をいただきながらウイスキーをガバガバ飲み、新年へのカウントダウンが終わると同時にシャンパンで乾杯した。
僕は新宿で飲食店もやっていることもあり、食べ物や飲み物に対する関心は人並み以上にあるつもりだが、ワインやシャンパンは全く関心がないというか、自信がない。もちろんお店にはワインが数種類置いてあるが、日本酒のように自分自身で選んだものではなく、ワイン通を自称する社員に選んでもらったものが置いてある。
さて、毎年元旦に、「芸能人格付けチェック」という僕の大好きな番組が放送される。その番組を観ながら今書いているのだが、ご存知の方も多いと思うが、高級レストランのステーキとスーパーで売っている安い肉を使ったステーキを目隠しをして芸能人に食べてもらい、どちらが高級レストランのステーキかを当てるというもので、面白いことに、ことごとく外してしまうのだ。
今回の放送でも、1本100万円のワインと1本3千円ワインを飲み比べ、ワイン通を自称する有名芸能人が見事に外すのであるから実に痛快だ。また、30億円以上するヴァイオリンと30万円のヴァイオリンの演奏を聴き比べ、40年以上のキャリアを持つ歌手が外してしまうのだから、観てるほうは面白くてたまらない。
一流芸能人を自負する有名人が、一流と三流を見極められない、そこがこの番組のミソである。それにしても、人間の舌とか耳は実にいい加減なものだ。誰かが「これが美味しい」と言えば、多くの人はそう信じてしまう。自分自身の舌や耳で確かめずに人の意見、世間の評判に安易に従ってしまう。でもよく考えてみると、何かに「流される」というのは食べ物や飲み物に限ったことではないかもしれない。
まあ、今日は元日なので、あまりややこしい話はやめよう。写真は、夜景壁紙.COMから拝借した新宿の夜景。今年も新宿とは深い付き合いになりそうだ。
大晦日の話。
今年も今日一日を残すばかりとなってしまった。僕は今年も北海道に帰省せずここ東京で新年を迎える。さて、来年は巳年。株式相場の世界では「辰巳天井」という格言があり、実際、今月28日の大納会は13年ぶりに終値で年初来高値を更新して終了した。格言どおりにいけば、巳年の来年は一段の株高が期待される。
巳年はへびどしとも言われ、ご存知のように、古来からへびは商売繁盛や金運を招く縁起のよいものととれてきた。そうなると、来年の景気回復への期待がいやが上にも高まるというものだ。
ところで、大晦日といえば、紅白歌合戦。といっても、僕は観ていないけど、今日は家庭団欒、紅白を楽しみにしている方も多いはず。でも、最近の紅白は放送時間がちょっと長すぎるような気がする。昔は3時間弱だったが、今は4時間半くらいに伸びている。こんなに長時間だと正直、飽きるよね。
人間は飽きっぽい動物だと思うけど、この頃は一層飽きっぽくなってきた気がする。飽きっぽいいうことと切れやすさということは、どちらも辛抱が効かないという点で同義だと思うけど、子どもが切れやすくなったということはかなり前から指摘されている。でも、切れやすくなったり飽きっぽくなったりしているのは子どもばかりではなく、大人も同じなのではないだろうか。
好き嫌いが激しい世の中なのかもしれない。いろいろな考え方や価値観があっていいと思うけど、譲ったり、妥協したり、ぐっと堪えて折り合うという精神が希薄化してしまった感じがする。今回の総選挙では、14もの政党が立候補者を擁立したが、自分たちの主義主張を譲らず、好き嫌いを鮮明にしていくと、まとまるものもまとまらなくなるという典型事例になってしまったような気がする。
さて、僕は正直言うと、世の中はお金ばかりじゃないと思うけど、かといって、世の中、心の豊かさだけあればそれでよいといった精神論だけで生きていけるものでもないと思う。経済的なことも精神的なことも、どちらも人間にはある程度必要に違いない。そのどちらがより重要で、そのどちらが先にあるものなのか、それはよくわからないけど、僕のこれまでの経験からすると、ある程度の経済基盤を整えることが現実には先のように思う。
もうそうであるのなら、やはり、国民の生活水準を上げること、もっと簡単に言えば給料を上げていくことが急務だと思う。そのためには会社が儲からなければいけない。そのための政策を新政権は推し進めるというのであるから、そこは是非期待したい。ところが、世の中にはいろいろな人がいるもので、新政権の経済政策を批判する専門家も少なくない。日本が沈没しても構わないというなら別であるが、もしそうでないのなら、景気回復のために専門家は理屈ばかりこねないで建設的な行動を取るべきだと思う。
支離滅裂になってきたが、今年最後なのでもう少し付き合っていただきたい。政治的な話はあまりしたくないが、尖閣問題についていえば、残念ながら日中の歩み寄りはなかなかみられない。日本の新政権発足後中国が「日本は歩み寄って問題解決を図るべき」と言えば、安倍総理は「尖閣は議論の余地なし」と応酬する。先ほども書いたが、問題解決の方法はお互いが譲ったり、妥協したり、ぐっと堪えたりすること以外にない。
日本側がいくら「議論の余地なし」と言っても、現実問題として国家間の問題、それも相当な重みのある問題になっているのであるから、常識的には議論しなければならない。中国にしても、いつも自分たちだけが正しいとする中華思想はこの際捨てて、交渉のテーブルにつくべきではないだろうか。同様のことは竹島問題にも言えるが、いずれにしろ、どんな歴史的経緯経過があるにしろ、問題は厳然として今存在しているわけであるから、お互いヒステリックにならずに冷静に議論したらどうだろうか。
今から3年前、当時の鳩山首相は北京で中国の温家宝首相、韓国の李明博大統領と三者会談を行い、鳩山首相が提案する「東アジア共同体構想」を説明し、協力を求めたが、成果はなかった。アジアは一つと叫んでみても、実際のところ、個々の国家は地理的に近いということはあっても中味のほうは大分異なっていて、一つになりきれないのが実情だ。
一昨年亡くなられた文化人類学者の梅棹忠夫さんが著された『文明の生態史観』によれば、同じアジア人といっても、感覚的、観念的には同質かもしれないが、論理的、実質的には同質ではないとして、アジアが一つになることの難しいさを指摘している。さわさりながら、国家間の経済境界線がほとんどなくなってしまった現在、現実的にはもう後戻りできない状況になっているのであるから、各国はなんとか政治的な落としどころを見つけていく努力をしてほしいと思う。
梅棹氏は同書で、日本という国は世界的にも独自の文明、文化を持つ国だと分析して、日本という国の特異性についても述べている。それでは、そんな日本の生きる道とはどんなものなのだろうか。前政権の民主党は「コンクリートから人へ」を掲げて政権を担ったが、ご存知のように惨めなかたちで政権を去った。そもそも、「コンクリートから人へ」のスローガン自体が間違っているような気がする。この世の中、コンクリートも人も、両方必要なのである。コンクリートの代表選手である公共工事を大幅に減らしたおかげて不景気は加速したし、一方、だからといって政権が人に特別優しく対応したのかといえば、ほとんどそういうことはなかったのではないだろうか。
まあ、過去のことは忘れるとして、今後どうするべきか。復興も含めた、公共事業への投資は早急に実施してもらおう。なんだかんだといっても、公共事業は世の中にお金を流通させる最も手っ取り早い手段だからだ。しかしながら、公共事業だけでは長期的には経済は伸びない。なぜなら、高度経済成長の再来は今後は極めて難しいからだ。そこで僕が提案したいのは、ある意味、公共事業とは正反対に位置する事業への投資だ。それは一言で言えば、日本文化への投資だ。
僕はテレビ好きなので、新しい情報はほとんどテレビから得るが、この頃感じることは、日本文化が海外で相当評価され、人気があるという事実だ。例えば、昔からあるもので言えばアニメーション、漫画、ゲームなどがある。これに関連してコスプレも人気だという。そのほかでは、日本食が外国人に大人気だという。海外の寿司屋、居酒屋などは現地の人たちで大賑わいだ。ロンドンでは、漢字が書かれたTシャツが流行っているらしい。漢字自体に神秘性があるという。
ファッションもある。原宿、渋谷などで流行する奇抜なファッションはまたたくまにアジア各国に伝播する。歌もある。AKB48は台湾、中国などでも大人気だという。その他、絵画、ダンスなどもある。そして、忘れてはいけないのが、文化というより科学の分野かもしれないが、研究開発への投資だ。山中教授が今年ノーベル賞を受賞したが、ある話によると、彼の研究は事業仕分けで研究費が出ない可能性もあったという。
日本文化や得意とする科学分野への投資もおこなうことで、日本の存在感を世界に示し「これが日本の生きる道」の方向感を明確に示して欲しいと思う。
とりとめのない文章になってしまった。もう終わりにする。写真は、新宿駅西口。小田急ハルクのあたりから撮ったもの。ユニクロは今や世界的企業に成長した。この商法も日本のオリジナリと言えるかもしれない。
みなさんが、健康で新年を迎えてくださることを祈念して、今年のブログは終了したいと思います。red
男女の話。
今年もあと一週間を切った。あわただしい年末であるはずなのだが、僕は昨日、今日と二日間、会社を休んでしまった。さぼったわけじゃなくて、どうやらノロウイルスを罹ったみたいなのだ(しかしながら、病院の先生によると、ノロウイルスか単なる風邪かの見極めは極めて難しいという。)。
クリスマスイブの前夜、ある食べ物を食べた後急に便意が襲ってきた。それから何度もトイレと部屋を行き来して、翌日にはお腹のほうも痛くなってきた。激しい嘔吐こそなかったが、ノロウイルスの典型的な症状のように思えた。
昨日、近くの内科に行って薬を処方してもらったお陰で、今日午後あたりから下痢と腹痛は収まった。明日は多分会社に行けると思う。この二日間、うどんや蕎麦しか食べてなかったので、明日はちょっとだけ脂っこいものを食べてみようかと思う。
さて、第二次安倍内閣が発足した。問題山積のなかでの船出であるが、なんとか経済再生を実現して、元気な日本を取り戻してほしいと願う。夕方発表された大臣の顔ぶれを見ると、重厚感、安定感があってなんとなくやってくれそうな気もする。そんななか、今回の内閣には女性大臣が二人登用された。また、政府三役にも女性役員が二人登用された。このような女性登用は安倍総理の方針らしいが、その部分だけ僕はちょっと引っ掛かっている。
今回の総選挙の有権者は約1億人で、男女比でみるとほぼ一緒であるが、正確に言うと3百万人くらい女性のほうが多い。一方、総選挙で当選した女性立候補者は38人に留まった(当選者総数480人)。前回(09年)の総選挙では54人であったから大幅に減少したことになる(前回は、民主党だけで40人が当選した。)。
当たり前のことであるが、現在の選挙制度では、投票すること、立候補することに関して、男女間に違いは一切ない。ある一定の年齢になれば、特別なことがない限り、男性であっても女性であっても自由に投票し、自由に立候補することができる。
何をいいたのかと言うと、敢えて「女性登用」という表現を使う時代はとっくに終わっているのではないか、僕はそう言いたいのである。安倍総理は昨日、政府三役のお披露目の場で「女性が活躍しなければ、今後の日本の発展はない。」という趣旨のことを発言していたが、相当以前からそういう状況になっているわけで、このような発言が出ること事態、なにか時代遅れのような気がした。
ビジネスの世界も含め、どんなところでも男女平等の世の中はなっている。チャンスは平等に与えられている。もしそうでなければ、誰かが必ず騒ぐだろうし、法律で争ったら男女平等と主張する側が勝つに決まっている。今はそういう世の中なのだ。
選挙に関しても、チャンスは男女に平等に与えられているわけだから、あとは、能力、実力の世界である。そうなれば、改まって「女性登用」などと言う必要はまったくないわけで、単に「能力、実力、適性で選びました。」と言えば済むことではないだろうか。ことさら「女性登用」を強調すると、本当は安倍総理は男尊女卑ではないかと勘ぐりたくなってしまう。
まあ、目出度い船出の日に批判めいたことを言うのは野暮かもしれないが、期待する政権なので、あえて書いてみた。
写真は、新宿三丁目。先週、元気な頃に撮ったものです。
見た目の話。
僕は会社で人事も担当していて、新入社員や中途採用社員の面接をこれまでたくさん行ってきたが(もっとも、ここ数年新卒採用はしていないが。)、採用の難しさをいつも感じている。
人は見た目ではないとよく言われるが、正直、見た目も重要な気がする。見た目には顔のほかに身なりも含まれる。僕は、経歴書に書かれている字の上手い、下手も気になる。もちろん、経歴が適性判断の最も大切なポイントだと思う。2、3年に1回の割合で転職しているようであれば、職場でトラブルを起こす傾向があるのではとか、辛抱がきかない人なのではと思ってしまう。
養老孟司さんのエッセイに次のような話が紹介されている。戦時中、空軍のパイロットがどんどん死んでいく。補充しなければならないので、誰がパイロットに向くか軍隊が適性を調べるのだが、なかなかうまくいかない。そこで、よく当たると評判の人相見に若い兵隊を順繰りに見せたら、それが結局一番よかった、当時の参謀がそう回顧していたという話だ。
人の適性を短時間で見抜くことはなかなか難しい。上の話の人相見は、若者がイケメンだとかブサイクだとか、そういう表面的なところを見たわけではなく、人相学に照らして、目、鼻、口、耳などをつぶさに見てパイロット向きの者を選んだに違いない。いずれにしろ、人の顔にはその人の持つ特徴、性格などか知らないあいだに表出しているのだろう。
さて、尼崎連続変死事件の角田容疑者が留置所で自殺した。事件の全容解明が遅れることが懸念される。ところで、テレビでよく出てくる角田被告の写真を、みなさんはどんな感想を持って見ていただろうか。あの写真だけ見ると、「いじわるな顔」「悪党面」、そんな感じではなかったろうか。僕も正直、そう感じた。
人は見た目ではないと言われるが、実際にはやっぱり見た目もあるような気がする。でも、人は見た目だよねと言い切ってしまうと、世の中がおかしくなってしまうから、大きな声でみんな言わないだけだろう。「そういうお前は、どんな見た目なんだ」と言われそうだが、自分の見た目は周りの方から評価をいただくしか方法がないので、みなさんに判断を委ねたい(きっと、エロ顔に違いない。)。
新しい写真がないので、先日京都で撮った紅葉を掲載します。あしからず。
野球の話。
北海道にいる友人の多くは今、北海道日本ハムファイターズのファンだ。地元北海道にフランチャイズがあるのだから、日ハムファンになるのは至極当然なことかもしれない。しかしながら、同じ北海道出身でも僕は、ひそかにずっと巨人ファンをやっている。
さて、花巻東高校の大谷投手がすったもんだの末、日ハムに入団することが決まった。当初、大谷投手はメジャーリーグを目指すことを表明していたが、ドラフトで強硬指名した日ハムの説得に折れ、結局、日本球界でプレーすることになった。
メジャーかそれとも日本球界か、大谷投手の選択について賛否両論があるようだ。日本球界で少し勉強してからメジャーに行くべきという意見がある一方、初志貫徹でメジャーにチャレンジするべきだという意見もある。僕の意見は、そのどちらでもない。
そもそも論になるが、メジャー、メジャーとなぜそう騒ぐのか、僕にはよくわからない。確かに、メジャーには世界から優秀な選手がたくさん集まっていることは事実だろう。日本からも、イチロー、黒田などが現在大活躍している。一度はイチローのようにメジャーという大舞台で腕試しをしてみたい、野球を志す選手たちがそう思う気持ちは理解できる。
日本球界でも最近は外国人選手が増えたが、それでも大半は日本人選手だ。思うに、日本には日本らしい独自の野球がある。メジャーのようなダイナミズムには欠けるかもしれないが、バントなどの小技を駆使したり、定石では考えられない意表を突く作戦に出たり、心理面で相手に揺さぶりをかけたり、メジャーではなかなかお目にかかれない面白さが日本の野球にはある。
WBC二連覇にはそれなりの理由があるはずだ。それは一言でいえば、総合力の勝利ということだろうと思う。飛び抜けた天才はいないが、走攻守それぞれの職人が揃っていて、各自が自分の役割を十分自覚してプレーしている。メジャーのように全員が「スター」ではなく、でっこみひっこみあり、硬軟取り混ぜという、なんともいえない全体的なバランスが日本の野球を面白く、そして強くしている。
はっきり言うが、メジャーの試合を面白いと思って観ている日本人は実は少数なのではないだろうか。もちろん、野球が面白くない=プレーの水準が低い、という等式は成り立たないが、いずれにしろ、日本の野球は世界最高水準にあることは誰もが認めるところなのだから、大谷投手はメジャーになんか行かないで、日本の野球ファンの目の前でずっと活躍して野球人生を送ってくれればいいのではないかと思う。
写真は、星ナビ.comから拝借しました。漫画・巨人の星では、父・一徹が宵の明星を指差し飛雄馬に「巨人の明星になれ」と励ましたが、大谷投手のお父さんはどうだったのだろうか。