人生はいろいろ。そして、人生はエロエロ。
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      花も嵐もふみこえて、明日も飲む。
      JUGEMテーマ:日記・一般



      台風の話。


      大型で強い台風12号が北上中で、2日にも上陸する可能性が出てきた。僕はその日、昼の便で釧路に出張する予定であるが、天候次第では行けないかもしれない。そのときは会社に戻らないで、早い時間からどこかで飲むことにしようと思う。


      日本は、地震、台風、火山噴火、豪雪、最近では猛暑(というより、酷暑)、ゲリラ豪雨など、自然災害が発生しやすい自然条件下にある。地震を例にとると、世界で起こるマグニチュード6以上の大地震の約2割が日本で発生していて(ちなみに、今年3月の東日本大震災はマグニチュード9だった)、また、世界の活火山の約1割が日本に集中している。


      新政権移行を目前に控え、原発をエネルギー政策のなかでどう位置付けるのかが注目されるが、地震大国日本には縦横無尽に活断層が走っているわけだから、冷静に考えてみると、日本に原子力発電所を建設すること自体がそもそもリスキーなことなのかもしれない。また、それ以前の議論として、福島第一原発の深刻な人的、物的被害の状況を見ていると、人類が原子力という「化け物」を神の聖域に立ち入って手に入れてしまったことが、今回の悲劇の始まりだったと言えるかもしれない。


      地震あり、台風あり、津波あり、火山噴火あり、豪雪あり、猛暑あり、ゲリラ豪雨ありの三重苦、四重苦、五重苦の自然環境下にあって、日本はGDP(国内総生産)世界第三位の大活躍をしているわけであるから、日本人というのは忍耐強さと、そして創意工夫の知恵を持った偉大な民族だなあと、改めて思う。


      さて、今日は「休肝日」。明日は、赤坂で飲み会がある。二次会の予定はないが、僕はきっと「花も嵐もふみこえて」、大雨の中一人、新宿で二次会をしているような気がする。


      写真は、高円寺阿波おどりの写真。なかなかの美人さんです。

      | red | 時事 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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        高円寺純情商店街に、浴衣姿の美女を見た。
        JUGEMテーマ:日記・一般






        東京高円寺阿波おどりが、昨日と今日の二日間行われた。今年で55回目を迎える高円寺の阿波おどりは、観客数だけ見れば、本場徳島の阿波おどりをすでに上回っている。例年、午後6時スタートなのだが、今年は節電モードということで、午後3時のスタートとなった。その趣旨は理解できるが、お祭りというのはやはり、夜やったほうがムードが出る。


        高円寺に引越しして今年で4年が過ぎた。高円寺という地名を初めて僕が知ったのは、詩人のねじめ正一さんが書いて直木賞を受賞した『高円寺純情商店街』を読んだときだった。高円寺純情商店街にある乾物屋を舞台に繰り広げられる物語は、厚い人情がまだあった古き良き時代の昭和を感じさせ、高円寺という場所にずっと憧れがあった。


        ところで、踊りであるが、激しい男踊りよりも、網笠を深く被り、浴衣で踊る静かで艶やかな女踊りのほうが僕は好きだ。阿波おどりを毎年撮っているが、撮るのは女性ばかりで、男性はほとんど撮らない。上の写真は昨日撮ったものであるが、一枚目の正面写真もいいが、どちらかというと僕は、二枚目の後ろから撮った写真のほうが、そそるものがあって僕は好きだ。


        さて、今夜は新宿ゴールデン街の納涼祭に行ってきた。たくさん飲みたかったのだが、今週はベトナム、北海道と出張が続いたので、さすがの僕も少し疲れていて、あまり飲めなかった。今日は早く寝て、明日からまた一生懸命飲むことにしよう。

        | red | 高円寺 | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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        ハノイに、アオザイの美女を見た。
        JUGEMテーマ:日記・一般




        向田邦子さんの話。


        向田さんが航空機事故で急逝されてから、今月で30年が経つ。今の僕と同じ、51歳だった。日経コラムによると、演出家だった久世光彦さんは向田さんを「どこにもいそうで、どこにもいない、そんな人だった」と評したらしい。この久世さんの言葉、なかなか含蓄のあるいい言葉だ。人からこう評される人は稀かもしれない。ほとんどの人は、僕も含め、どこにもいそうな、ありふれた人間だからね。


        川本三郎さんの『向田邦子と昭和の東京』によれば、向田作品には食事の場面が多く登場するが(そういえば、「寺内貫太郎一家」では毎回、家族が朝食を一緒にとる場面があった)、彼女にとって食事とは、自分の子ども時代を思い出し、そして、家族とのふれあいを思い出すものだとしている。


        なるほど、食事というのは大切なものだ。ちょっと脱線するかもしれないが、例えばカップルがデートで食事をして、二人の食べたいものが大体一致する傾向にあれば、そのカップルはうまくやっていけそうな気がする。一方、デートをするたびに食べたいものが合わないカップルは、どこかで早晩、破たんするような気がする。どちらも気がするだけで、何か確証があるわけではないのだが、なんとなく、食事というのは人間関係の成否を左右する大事なものの一つであるように思うのだ。


        さて、火曜日にベトナム、ハノイに行って、今日午前中に日本に戻った。4年ぶりのベトナムだっが、今回は1泊3日の弾丸出張。したがって、アオザイの美女と遊ぶ時間はほとんどなくて、残念だった(ちょっとだけ遊んだが。それにしても、アオザイの美女は人懐っこくて、かわいいね。)。


        現地では、ベトナムの伝統料理の一つであるチャー・カー(写真)を食べに、ハノイでは有名な「チャー・カー・ラボン」に行った。この店のメニューはチャー・カーただ一つで、熱々の油鍋に入った白身の雷魚と野菜、香草を、ブンと呼ばれるお米の麵と一緒に食べる。カレーの風味がほんのり効いていて、日本人にも違和感なく食べられて、美味だ(ベトナムに行くたびに僕はこれを食べている)。


        ということで、少しのんびりしたいところであるが、明日は釧路に行く。天気は曇り。最高気温は20度。ちょっとだけ涼んできます。

        | red | | 21:43 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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          僕は、新宿のBARにいる。
          JUGEMテーマ:日記・一般




          ススキノの話。


          といっも、ソープランドとかキャバクラの話ではない。ススキノに関する本と映画に関する話を少し。


          東直己さんは、札幌在住の作家で、ススキノを舞台にした小説やエッセイを多く書いている。ススキノ大好きの僕は一時期、ススキノに思いを馳せながら、彼の作品をよく読んだ。その東さんが書いた『バーにかかってきた電話』が今般、「探偵はBARにいる」というタイトルで映画化されることになった。


          実は、『探偵はバーにいる』というタイトルの小説を東さんは別に書いている。想像だが、映画化に際し、内容的には『バーにかかってきた電話』のほうが適していて、タイトル的には『探偵はバーにいる』のほうが適していた、そういうことなのかもしれない(ただし、「バー」は映画では「BAR」に変わっている)。映画は来月10日に公開されるということなので、観に行こうと思う。


          さて、東さんにはススキノエッセイ3部作というのがあって、そのなかに、「ジンギスカン」の話がある。それによると、ジンギスカンは自宅で、店で、そして野外で1年中美味しく食べることのできる、北海道人のソウルフードだというのだ。ジンギスカンをこよなく愛する僕も同感である。子どもの頃、100グラム80円くらいの安いマトンを青空の下でよく食べものだ。1キロ食べても800円だから、本当に安いよね。


          そういえば先日14日、新宿ゴールデン街の飲み仲間と一緒に、新宿三丁目でジンギスカンを食べた。思うに、ジンギスカンほど、焼き方が個人によって異なるものはないような気がする。ちなみに僕は、肉以外には、もやししか入れない。もやしを均等に鍋全体に敷き、その上に肉を乗せて焼く。性格が単純なので、焼き方も単純なのだ。


          ということで、今日はつまらない話になってしまったが(いつものことだが)、お盆明けということでご容赦願いたい。


          さて、昨夜は、銀座の土佐料理店で鰹のタタキを頂いた。ソウルフードという話があったが、鰹のタタキは間違いなく高知県のソウルフードだと思う。


          写真は新宿ゴールデン街。銀座の後、ここで締めた。

          | red | | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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          世の中も変わる、人の心も変わるのさ。
          JUGEMテーマ:日記・一般




          1970年(昭和45年)の話。


          今から41年前の1970年。この年の3月、大阪で万国博覧会が開かれた。そのテーマは「人類の進歩と調和」。戦後、高度経済成長を続けた日本が、その実力を証明する一大イベントになった。同じ3月、赤軍派がよど号をハイジャックし、犯人たちは北朝鮮に亡命したが、これが日本における初めてのハイジャック事件となった。そして、11月。作家・三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺した。


          さて、この年にヒットした歌謡曲を調べてみる。「圭子の夢は夜ひらく」(藤圭子)、「京都の恋」(渚ゆう子)、「今日でお別れ」(菅原洋一)、「白い蝶のサンバ」(森山加代子)、「白い色は恋人の色」(ベッツィ&クリス)、「黒ネコのタンゴ」(皆川おさむ)、「走れコウタロー」(ソルティー・シュガー)、「四つのお願い」(ちあきなおみ)などがある。


          1970年というのは、どのような年だったのだろう。阿久悠さんによれば、1970年は「時代は貧しいのか豊かなのか、人々は自由なのか不自由なのか、未来は明るいのか暗いのか、なかなか個人では確認出来なくて大いに迷い、揺れた年」であり、また、「この年ほど、暗くて騒然とした年を他に知らない」とも語っている(『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史』)。


          暗くて騒然としたというのは、冒頭述べた、よど号ハイジャック事件や三島由紀夫割腹自殺の他に、この年、安保反対運動やベトナム戦争反対の動きなどが広まったことを指しているに違いない。そんななか、時代に押される形で歌謡界に登場したのが、藤圭子だった(写真)。1969年、藤圭子は「新宿の女」でデヴューする。そして翌1970年に発売した「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットし、紅白歌合戦初出場を果たす。


          阿久さんは「大仰に言うと、人々はこの少女(=藤圭子)の歌と姿に、時代の怨(うら)みめいたものを重ねたのである」としている。演歌ではなく「怨歌」という言い方がなされるようになったのも、この頃である。世の中への怨み節をドスのきいた声で藤圭子は歌ったが、一方、先日亡くなられた日吉ミミさんは、アッケラカンとした歌声で「怨歌」を歌った、阿久さんはそう指摘する。


          日吉ミミさんの代表曲「男と女のお話」も1970年のヒットだ。


          ♪ 恋人にふられたの よくある話じゃないか
          世の中変わって いるんだよ 人の心も 変わるのさ


          「昭和45年(1970年)の日本人は、まだ、世の中や時代は、明るさと暗さで成立していることを知っていたし、明るさの中にいる人は暗さを思いやり、暗さの中にいる人は明るさに手を伸ばしながらも、どこか暗さにいとおしさを覚えていたと思う」、阿久さんのこの言葉はなかなかの名言だと僕は思う。阿久さんはきっと、1970年という年に特別な思いを抱き、そして愛していたに違いない。


          1970年、時代の節目となった年だったのかもしれない。

          | red | | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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            ロンドン、ロンドン、不愉快なロンドン?
            JUGEMテーマ:日記・一般



            イギリスの話。


            今年4月、ウィリアム王子のロイヤルウェディングが行われたが、イギリスというと、歴史と伝統が重んじられ、高貴でジェントルマンの国、そんなイメージがあるが、そのイギリスが今、大変なことになっている。


            ご存知のように、ある黒人青年が警察官に射殺された事件が発端となり、ロンドをはじめイギリス各地で暴動、放火、略奪が行われていて、その主役は、白人も含めた20代のニートだという。社会に希望が持てない、仕事がないなど(イギリスでは、20代前後の若年層の失業率は20%以上だという)、彼らが日頃抱いていた鬱憤(うっぷん)が今回爆発した、多くのメディアはそう分析している。


            日本にもニートは60万人くらいいると言われているが、日本人の国民性からして、イギリスのように、何かの事件をキッカケに、暴動を起こすようなことはないように思う。だからといって、ニート問題をそのまま放置していいというわけではないが、実は、ニート問題以上に日本で深刻なのは「引きこもり問題」だと思う。


            少し前の数字であるが、日本には引きこもりが160万人以上いるとされる。最近の傾向として、20代ではなく30代の引きこもりが増えている。10代ならともかく、30代の成人が働かずに一日中家にいるという光景は、ちょっと異様だ。しかしながら、低成長社会にあって、引きこもりはこれからも多分、増えていくのだろうと思う。


            「引きこもりの連中は好きでそうしているのだから、放っておけばいい」、そういう意見もあるかもしれないが、160万人が200万人、そして300万人にもなったら、彼らが本来労働していたら創造したであろう経済的付加価値が生じないという意味において、社会にとっては大きなロスになる、そう認識すべきだと思う。


            一昔前から、欧米流の合理主義、成果主義、市場原理主義が「良いもの」として日本に採り入れられ、結果、会社も個人も「勝ち組」と「負け組」(これらの言葉は好きではないが)にはっきりと仕分けされてしまい、弱肉強食の社会で「負け組」には敗者復活のチャンスは与えられなくなった。「世間は冷たい」、「負け組」はそう感じているに違いない(世間というのは、いつの時代もそういうものだと僕は思うけど)。


            日本はそもそも、持ちつ持たれつの共同体社会、和の社会である。欧米のように、他人を蹴散らして自分だけが生き延びる、そういう精神文化は日本には馴染まない。引きこもりや「負け組」に属する人たちがどんどん増えているのは、欧米流の合理主義などがガン細胞のように、「日本国家の体内」で増殖しているせいのような気がする。


            先日の記事で、超長寿(高齢化)社会の問題を放っておくと日本は大変なことになると書いたが、引きこもり問題なども放置しておくと、知らない間に日本という国家が自壊していくような気がしてならない。


            さて、今日も新宿歌舞伎町(写真)で飲んでしまった。明日は赤坂で飲むことになっている。世間はお盆休みだけれど、僕の肝臓に休暇はない。

            | red | 時事 | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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              飲み食いした分だけ、支払います?
              JUGEMテーマ:日記・一般



              割り勘の話。


              昨日のある新聞に、韓国ではこの頃、割り勘が増えているという話が載っていた。これまでは、上司など、上の立場にある人が、部下などの分も含めて全員の飲食代を支払っていたという。しかしながら、韓国では物価が上昇していて、一人で全員の分を支払うことがキツくなってきて、割り勘が広まったらしい。


              ここまでなら、あーそうなのか、で終わるのだが、ちょっと凄い話がある。それは、割り勘を通り越して、自分が飲み食いした分だけ計算して支払う、そういうやり方まで、韓国では行われ始めたというのだ。わからない話ではないが、酒場でこのやり方をやられると、白けちゃって、酔いが一気に覚めてしまいそうだ。


              僕が会社でペーペーの頃、飲み代はすべて先輩が支払ってくれた。僕は昔から酒好きだったから、夜飲みたくなると、「今晩、一杯どうですか?」と自分から先輩に声をかけていた。そうすると、ほとんどの場合、先輩は快く付き合ってくれた(本当は、嫌だったこともあるのかもしれないが。)。


              そんなこともあり、僕は、飲み代というのは先輩が支払うものだと思うようになった。さすがに、同期入社の連中と飲むときは割り勘だったような気もするけど、先輩と飲めばおごってくれることを「学習」した僕は、同期の連中とはほとんど飲まずに、諸先輩たちとばかり飲んでいた。


              僕もやがて部下を持つようになり、彼らを誘って居酒屋なんかで飲むときは、全部自分が支払うようにしている。それは僕が見栄を張っているということではなくて、自分が若い頃は先輩に支払ってもらったのだから、今度は自分が支払う番だ、ただそう思っているだけのことなのだ。でも残念なのは、飲みに行こうと誘うのはいつも上司の僕のほうで、「今晩、一杯どうですか?」と声をかけてくる若い部下がほとんどいないことだ。


              草食系かなんかよく知らないが、酒を飲まない若い人が増えたような気がする。さらに言えば、酒を飲んでも、周囲を楽しく、そして明るくするような話題を提供できる人が少なくなったのではないだろうか。これも時代の流れといえばそれまでかもしれないが、酒場がだんだん盛り上がらくなってきているような気がして、そこだけはとても寂しい感じがする。


              写真は、新宿の都庁から撮った夜景(夜景壁紙.comから拝借しました。)。昨夜も最後の締めは新宿だった。午前様になり、今日は一日死亡状態だった。

              | red | | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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                生殖行為不可能、僕も、用なしかも。
                JUGEMテーマ:日記・一般



                老いの話。


                本川達雄さんの『生物学的文明論』を読んでいたら、面白いことが書いてあった。もともと人間の寿命は40歳くらいで、それ以降の人間は、医療技術などによって支えられて生きているだけの「人工生命体」だというのだ。なるほど、そう言われて見ると、40歳くらいになると身体のいたるところにガタがくる。僕も50歳を過ぎたから、「人工生命体」ということになる。


                人間以外の動物は、老いて生殖行為ができなくなったときに「用なし」になる(「用なし」になる日が、僕も近いかも。)。それには理由があって、自然界では食料が限られているから、食料の争奪戦でもし子どもが負けて栄養状態などが悪化すると、種として子孫を残していくことができなくなってしまうからだ。


                ところで、日本人の寿命は世界一レベルで、女性は86歳、男性は79歳だ。江戸時代の日本人の寿命は40歳代、昭和22年頃でも50歳だったから、今のような長寿になったのはつい最近のことなのだ。


                さて、深山七郎の名作『楢山節考』は、姥捨て山の話だ。貧しいある山村では食料が乏しく、その村の老人は70歳になると楢山に捨てられるという掟がある。老人を捨てることは、残った家族が少ない食料などを分け合いながら生き延びていくための手だてなのだ。息子は老いた母親を背板に乗せ、その母親を捨てるために楢山に登って行く。


                長寿社会、少子化社会、そして低成長社会(所得が伸びない社会)という現代にあって、若い世代の人間は、自分が生きていくことだけで精一杯だ。そのうえ、親の面倒までみろというのは、よくよく考えてみると、酷なようにも思える。「三丁目の夕日」の時代のように、経済が右肩上がりで(当時の経済成長率は11%程度、昨年は2%台)、子どもの数も多ければ、社会全体で老人を支えることもできただろう。


                多分であるが、経済の高度成長は今後当分見込めないだろう。医療はますます進歩し、長寿社会は超長寿社会になっていくに違いない。一方、夢と希望がなかなか持てなくなった社会にあって、少子化の改善は難しいかもしれない。そうなると、長生きすることが社会、もっと言えば、国家にとって望ましいことなのか、甚だ疑問になってくる。


                ところで皆さん、今日本で、65歳以上の高齢者はどのくらいいるかご存知ですか。答えは、約3000万人。全人口に占める割合は23%を超えていて(つまり、4人に1人は65歳以上ということです。)、この割合は先進国のなかでも群を抜いている(例えば、アメリカは12%程度)。


                長寿社会。長生きすることは人間にとって喜ばしいことかもしれないが、喜んでばかりいると、そのツケが若い世代に重い負担を強いて、結果、幸せに暮らせない国民を増やしてしまうような気がする。僕は、長寿社会の問題を政治課題として取り上げることが本当は必要なのではないかと思う。


                写真は今日の銀座中央通りの歩行者天国。暑くて、道路に出ている人はまばらだ。

                | red | | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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                  いくらの醤油漬け、たらば蟹、鮭のハラス、たまりません。
                  JUGEMテーマ:日記・一般


                  写真上:花咲蟹、写真下:厚岸の牡蠣


                  都内で僕は、ある居酒屋の経営に携わっている。釧路を中心とした道東の海の幸を、お店で出している。まだメニューの数が足りないので、新しい食材を求め、二泊三日の日程で道東の主要漁港に行ってきた。


                  火曜日、羽田発の一便で、釧路に入った。空港からそのまま厚岸港に直行。昼食をそこで済ませ、慌しく根室港(花咲港)に移動した。その日は根室に宿泊。翌、水曜日、午前7時過ぎに根室を出発し、知床半島にある羅臼港を目指した。


                  厚岸は牡蠣の産地であるが、3月の大震災の際に発生した大津波のせいで、多くの牡蠣が被害にあった。今年はまだ何とかなりそうだが、来年は牡蠣が獲れないかもしれない、漁業関係者の方がそんな話をしていた。


                  蟹のなかで、身が濃厚な花咲蟹が一番美味しいと僕は思う。小学生の頃だから今から40年以上も前のことだが、花咲港には多くの花咲蟹直売所があって、茹でたての蟹を鱈腹食べたのを覚えている。その頃は根室も活気があったが、隣国に蟹漁の主導権を奪われ、人口3万人を切った今の根室に、当時の活気は感じられなかった。

                  写真:納沙布岬


                  根室で少し時間があったので、思い切って納沙布岬に行ってきた。天気がよければ北方四島が肉眼で確認できるのだが、この日はあいにくの曇り空で、北方四島を見ることができなかった。近くに建つ資料館のようなところで北方四島の位置などを改めて知ったが、なかでも、千島列島最大の島である択捉(えとろふ)島の面積は約3200万平方キロメートルで、これは東京都の約1.5倍の広さに相当することに、ちょっとした感慨を覚えた。

                  写真:羅臼での昼食(たらば蟹、いくらの醤油漬、鮭のハラス、刺身(ボタン海老、ホタテ、イカ等))


                  二日目。オホーツクの海を横目で眺めながら、知床半島にある港町、羅臼(らうす)を目指した。車中、自然と、松山千春が歌った「オホーツクの海」が口から出てきた。それはさておき、羅臼港には、昆布、鮭、ホッケ、きんき(めんめ)、たらば蟹など、豊富な海の幸が水揚げされる。なかでも、ホッケ、きんき(めんめ)は身が大きくて、値段のほうも安い。今後は、羅臼のホッケときんき(めんめ)をお店で出すことを、その場で決めた。


                  写真:知床峠(天気がよければ、前方に国後島が見られる)


                  羅臼を離れ、知床峠を通り、札幌に行くため、女満別空港に向かった。僕は高所恐怖症なものだから、峠の道を上がり降りするのにも恐怖を覚える。特に、道路のすぐ下が崖になっているところは、そのまま落ちてしまいそうで、足が震える。運転はベテランの方にお願いしていたので安心はしていたが、それでも正直言うと、怖かった。いい大人がと言われそうであるが、怖いものは怖いのである。


                  写真:北海道の地酒ラベル。


                  夕方、札幌市内に入り、その晩は、当然の如くススキノで一杯やった。飲食店をやっているので、食べたり、飲んだりすることも業務の一環だと思っている(と、自分を正当化しているのだが)。翌日、新千歳空港で面白いものを見つけた。北海道で生産している日本酒のラベルが壁一面に並べられていたのだ。僕が係わっている飲食店でも、北海道の地酒を2種類出している。ただ、これからはわからないが、今のところ、日本酒は本州のもののほうが、北海道のものよりも美味しいような気がする。


                  というこで、今回の旅は終了。美味しい北海道の恵みを求め、僕の旅はまだ続きます。

                  | red | 北海道 | 15:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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