先月聞いた話。
ある日僕は、男性が気持ちよくなれる場所にいた。接客をしてくれた女性が興味深い話を教えてくれた。その気持ちよくなれるお店には、実はもう一人スタッフがいるのだが、今札幌に行っていて、6月の下旬にならないと復帰しないのだという。
その理由が面白い。3月11日の東日本大震災を予知して当てた人がいて、その人が、大震災から3か月以内に大きな地震が東京に再び起きると予知した。そのことをすっかり信じてしまったスタッフの女性は、埼玉にいる母親と二人で当分札幌に「避難」することにしたのだという。ところで父親はどうしたのと僕が聞いたら、父親は仕事があるので、埼玉に残ったという。
もちろん予知は当たってほしくないが、東日本大震災の惨状を目の当たりにすると、女性スタッフの取った行動も無理はない。
予知、予測など、未来のことが、どうしてわかるのだろうか、僕はいつもそう思う。科学的根拠に基づいていろいろな予測がされるが、どれもいくつかの「前提」を置いて行われるから、その「前提」が一つでも二つでも崩れると、予測は外れてしまう。予測とはそもそもそういうもの、そういう割り切りもあるのかもしれないが、もしそうなら、予測とはもともと当たらないことを「前提」にしている、そう思われても仕方ないように思う。
僕は占いというのをやらない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるが、未来のことなんて誰にもわかるはずがない、そもそも私はそう思っているからだ。ケ・セラ・セラ。自然体で行く、なるようになるさ、こういう姿勢が僕は好きだ。
ちょっと話は変わる。
ある方が言っていたが、人間の運命はこの世に生まれた瞬間にその80%は決まっていて、残りの20%をどう生きるかによって、人間の運命は多少変わるという。この考え方が正しいかどうかはもちろんわからないが、僕はこの考え方を知ったとき、なんとなく楽になった。自分の宿命を受け入れながら、自由裁量の20%のところは何とか工夫して生きていこう、そう自分で整理できたからだ。
自分の人生を100%変えたいとか、100%ではなくても、ほとんどの部分を変えたいとか思うと、そのキッカケとして占いなんかを利用するのかもしれない。人情かもしれないが、深入りは禁物のような気が僕はする。
今日から札幌。旧道庁赤レンガは、新緑に包まれている(写真)。